2019春_vol48
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よいよ来年にオリンピックを迎えるニッポン、東京。そのオリンピック出場を目指して、アスリートたちが厳しい研鑽を重ね、しのぎを削っている。その大半は10代から20代。そのピークは決して長くはない。加齢とともに衰え、変化する筋力、持久力、そして気力。それらに影響を受けてしまう宿命を持っている。先ごろ、女性柔道家が、愛しいわが子を前に、野獣になれなくなったと引退を表明した。女性が結婚、出産を経て復帰することは周りのサポートや気持ちの切り替えができなければ簡単ではない。ライフステージにおける、女性アスリートのひとつの決断の時でもあるのだと、非常にシンプルな表明であった。ところで、スポーツの語源はラテン  語   い「portare=移動」と分けての「deportare」「キャリー」という意味なのだそう。「キャリー」とは「運送・運搬・移動するもの」である。いまいちピンとこないこの語源の「de=~から」読み解くと、「どこかから移動する」という意味になる。これを面白く解釈した文献があり「現実逃避」なで、のだと示されていた。生きるために必要な普段の生活から解放される手段だというのか。逃避とはいかないまでも、その瞬間においては、やる方も見る方も元気や勇気、やる気が湧くという点においてはその通りと納得する。野獣選手も、(幸せな)現実に戻っていったのだ。日本のスポーツ庁の定義では、スポーツとは「身体を動かすという人間の本源的な欲求に応え、精神的充足をもたらすもの」とされている。精神的充足の主体は、アスリートであり、観戦者である。日常から解放され、勝敗に自分を重ねる。勝つことは、勝敗の世界においては正義である。そして、もう一つの主体は、国であり、企業であり、スポンサーでもあろう。オリンピックをはじめとする国際競技の代表ともなれば、お国の名誉を背負って戦い、企業チームの選手であれば、イメージアップと広告塔となることを期待される。人間の本源的な欲求に、別の本源的な欲求に応えよ、という側面も持ち始める。スポーツの商業化に賛否はあるが、誰にとっても、広義において「楽しさや達成感、幸福感を得るもの」であることは間違いない。夜更けのRecollectionコラム21文:晴日20旅びとよ4年に一度の「現実逃避」

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