Vol.49
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―荻原さんが2020年に期待することとは?今のようにスポーツ熱が高まっているうちにウィンタースポーツもアピールしたいですし、2022年に北京(オリンピック)があるので金メダルを取れる選手を育成したい。一スポーツ関係者として、結局スポーツって社会の中でなぜ必要なの?って問いがあった時にきちんと答えを持っていなきゃいけない。スポーツが文化の一つとして捉えていただいている現状に我々があぐらをかくのではなく、社会の一員として取り組んでいる姿勢を見せていかない限り、世の中でより深いスポーツへの理解は得られないと思っています。―ここからはご自身について伺いますが、荻原さんの人生の転機は?メダルを取った時ですね。スキー選手として大きな自信を得て、世界の舞台でやっていけるという確信が掴めました。●半生を振り返ってさっき話した、スポーツが社会で絶対に必要なものだと思っていただきたいと感じたのも、その時が出発点。金メダルを取ってから、ファンレターをびっくりするくらいいただいて、スポーツが社会の役に立てるんだという体験を初めてしたんです。そこは大きなターニングポイントでしたね。―次のリレハンメルで連覇を成し遂げられましたが、そこで逆にプレッシャーを感じたりはしませんでしたか?リレハンメルはある意味、勢いでいっちゃいましたけど、大変だったのは98年の長野(オリンピック)。その頃の自分を振り返ると、スキーの楽しみはなかったですし、義務感でしかなかった。なんでスキーをやっているんだろう?という状態になって、引退するか現役を続けるかで悩んだんです。でも自分なりに気付いた。ここで逃げたら俺は終わるな、と。スキーが好きだった頃の原点を探し始めたのがチャレンジして、それを競技人生の節目にしようと思ったのが2002年のソルトレークシティー。引退の時はハッピーでしたよ。晴れ晴れと卒業式を迎えた感じでした。―荻原さんが今まで国内外を訪れた中で、特に印象に残っている場所は?いろいろありすぎるんですけど…あれはドイツのW杯の会場かな。宿泊先が山のペンションなんですね。オーナーのお母さんがいるんですけど、日本人を泊めるってことで恐る恐るだった部分もあると思いますし、こちらもいろいろ要求したりして最初は雰囲気が悪かったんです。でも1週間いると打ち解けてきて、大会が終わって帰る時にはお母さんが泣き始めちゃったりして。そういう意味では心のふれあいをさせてもらいましたね。オーストリアの合宿先も、私が選手の時から今の渡部くん達も変わらず同じペンションを使い続けてる。ウェルカムっていうより「おかえり」っていう家族みたいな宿です。―現地の方々とのふれあいは素敵な思い出ですね。では、今後の目標を教えてください。先ほどもお話しましたけど、ジュニアの育成ですね。子供が飛べるようなジャンプ台があっても実際にやっている子はゼロという地域があります。そういう現状を見ると、うまく盛り立てて、ジャンプをやってみようという子供達を増やせるような活動をしていきたいですね。―最後の質問です。荻原さんは今、どんな旅路にいらっしゃいますか?これから進もうとしている道も曲がりくねったり左右に分かれていて、どっちに進んだらいいか判断に迷う時って必ず出てくると思うんですけど、一応歩いてきた道には足跡がついてるし、引き返しようもない。僕は個人で金メダルを取ったことがないんですけど、もし仮に取ってたらテレビ出演の依頼が殺到して、今頃「あの人は今?」になっていたかもしれない。そう考えると、今は大好きなスキーに携われているので、これが自分の道だったんじゃないかなって思うんです。この先の夢は個人の金メダリストを育てること。それを見て触発される子供達が増えたら、楽しい未来が待っているだろうなって思いますね。 1969年12月20日、群馬県生まれ。双子の弟・次晴氏とスキーを始め、長野原高、早稲田大を経て、北野建設に入社。 ’92年アルベールビルオリンピック、 ’94年リレハンメルオリンピックのノルディック複合団体でいずれも金メダルを獲得。 ’98年長野オリンピックでは日本選手団主将を務め、選手宣誓を行った。W杯では通算19勝を挙げ、世界初の個人総合3連覇を達成。2002年5月に現役を引退し、その後は政治家に転身。2010年まで務め、現在は北野建設スキー部のゼネラルマネージャーとして後進の育成にあたっている。荻原健司(おぎわら・けんじ)▲ 長野県内で小中学生を対象に行われたスキージャンプ体験教室に参加する荻原さん。92年のノルディック複合の団体種目で金99年。そしてもう一度オリンピックに11

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