Vol.51
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前が出ましたが、ジュビロ磐田で黄金時代を共に築いた中山さんとの繋がりも深いですよね。はい、僕は中山さんより5つ年下なんですけど、「お前にサッカーを教えてもらってる」とか「もっともっとサッカーを教えてくれ」とか、現役時代から非常に探求心の強い人で、自分がうまくなる手っ取り早さと、チームが強くなる術をよくわかっている人なんです。19歳の時にユニバーシアード代表のキャンプで初めて一緒になって、当時は僕からしたら神のような存在。最初は何も話せなかったんですけど藤枝で同郷ということもあって、ずっと可愛がられて一緒にやってきました。だから、監督最後のゲームって決めた日に「ちょっと観に来てよ」って声をかけていたんです。でも中山さんは「ごめん、その日仕事で行けないんだよ」って。だけどその当日、試合が終わって監督室に戻ったら中山さんがいたんです。思いっ―満喫されたのですね!宿泊先や滞在先で主に重視することは何ですか?普段はホテルから外に出ることがほぼないんです。それこそ一人でジョギングするくらい。イタリアに行った時なんか、サン・シーロスタジアム(ACミランのホームスタジアム)をぐるっと一周してきたんですけど、なかなか経験できないことなので、ドゥオーモ(大聖堂)とかの建造物を見るよりサン・シーロの方がいいかなって(笑)。ホテルでは基本ゴロゴロしてます。日本だと新聞を読んだり、マンガを読んだり、サスペンス系のドラマも好きでよく観たりしますね。―名波さんの意外な一面が垣間見えるエピソードですね(笑)。あっという間にお時間が来てしまいました。毎回ゲストの方にしている最後の質問です。名波さんは今、どんな旅路にいらっしゃいますか?何だろうな…人生脱輪中、かな(笑)。自分の中ではその脱輪も含めてライフプラン通り。決断が間違っていた時もあったかもしれないけど、それが後にうまく修正できるきっかけになったりもする。我々の職種ってずっとふるいにかけられて、いつも落っこちたり、指先だけで引っかかったりっていう人生をずっと続けていて、どこかで常に挫折を味わっているわけです。僕もスター街道まっしぐらってタイプじゃないので、すごい奴に会う度に絶対負けたくないっていう気持ちを学生時代からずっと持ってやってきまし●旅と人生きり抱きしめてくれて「やばいよ泣いちゃうよ」って言ったら「おつかれさん。じゃあ俺行くわ」って。当日中山さんが自分で動いて無理やり会えるスケジュールを組んでくれたみたいで。誇張じゃなく、ほんと15秒くらいですよ。そのためだけに来てくれたんです。―ここからはプライベートについて伺います。名波さんのストレス解消法は?ジョギングですね。膝を壊しているので、ジョギングすることで自分の体とコミュニケーションを取っている感じ。(膝に負担をかけるとよくないので)体重を増やさないように…と言いつつ最近は暴飲暴食の毎日です(笑)。―今まで訪れた中で印象的な場所やエピソードはありますか?旅行は元々しないんですけど、監督を辞めてから札幌に行って、その後東京から宮古島、また東京に戻って今度はニューヨーク。その他にも徳島、大阪、神戸ととにかくいろんなところに行きました。ニューヨークはよかったですよ。15年振りくらいに家族で行ったんですけど、セントラルパークまで歩いて10分のところに滞在していたので、毎日ハドソンリバーの脇をジョギングしてセントラルパークに行って、あとはブロードウェイで「アナと雪の女王」を観たり、ヤンキースの試合を観たりしました。た。これからも、自分の中でここが定年だと線を引くまでは、現場に立っていたいという気持ちが強いですね。静かな語り口の中にも、サッカーに対する熱い想いがひしひしと伝わってきました。名波さん、素敵なお話をありがとうございました。(2019年10月30日取材)▲ 1995年にジュビロ磐田に加入。その左足から繰り出される正確なパスや見事なシュートで黄金時代のチームを牽引した。1972年11月28日、静岡県生まれ。清水商業高校~順天堂大学卒。大学ナンバーワン選手として’95年、ジュビロ磐田に入団し、開幕戦でスタメンに抜擢。同年、日本代表に初選出され、代表デビュー戦でいきなり得点をマーク。ゲームを組み立てる能力が高く、日本代表として定着(67試合に出場)。’98年フランスW杯では10番を背負い、日本サッカー界屈指の“レフティ”として君臨。その後、’99~’00年、セリエAのACヴェネチアに期限付きで移籍。2014年9月より古巣ジュビロ磐田の監督を務め、2019年6月に退任。現在はサッカー解説や講演活動などで活躍中。名波浩(ななみ・ひろし)

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